育児してなきゃ酒浸り日記

30代のサラリーマンです。2人の息子と妻との日々を書いています。只今育休中です。

結局のところ、子どもの運命は親ガチャなのか…?『子育ての大誤解~重要なのは親じゃない~』を読んで

『子育ての大誤解』を読む。

 

 

 

きっかけは少し前に流行った『ヤバい経済学』という本の中で本書が紹介されていたからだと思う。購入したのが2021年で、一太郎が生まれる前である。だいぶ積読していたけど、ようやく読むことができた。

 

親が愛情をかければ良い子が育ち、育て方を間違えれば子どもは道を踏み外す――
この「子育て神話」は、学者たちのずさんで恣意的な学説から生まれたまったくのデタラメだった!
双子を対象にした統計データからニューギニアに生きる部族の記録まで多様な調査を総動員して、
子どもの性格と将来を決定づける真の要因に迫る。
センセーショナルな主張が物議を醸す一方、子育てに励む人々を重圧から解放してきた革命的育児論。

本紹介より

 

気になるところのページを折っていったら、結構な量になってしまった。

 

 

この本が出版されたのが1998年。再版されたのは2008年である。再版されるほどにアメリカでは影響力があったようだ。残念ながら筆者は2018年に亡くなってしまったようだ。

 

筆者の主張

筆者が本書内で述べている主張は、以下の通りである。

親の子育てが子どもの将来を決定づけるわけではない。子どもは親によって社会化されるわけではない。子育て神話には根拠がなく、根拠とされる研究のほとんどは役立たずだ。

P13新版まえがきより

 

・子どもの人格や能力は、行動遺伝学の仮説である「50%が遺伝で50%が環境」に影響を受けることを前提に置く。つまり、子どもの人格や能力は出生前の「遺伝」で半分程度は決まってしまう。また、残りの「環境」についても、主に家庭ではなく子ども同士の「仲間たちと共有する環境」に影響を受ける。

 

・親の涙ぐましい英語教育、上質なマナー指導、多様な絵本の読み聞かせは子どもにほとんど影響を与える事ができない。しかし、既存の心理学研究は、上述したような遺伝の要素を考慮に入れた研究をしておらず、「親の子育て→子どもの人格や能力形成に寄与」という枠に固執している。

 

・子どもは仲間たちと共有する環境において、自分がある集団に属していることを認識する。そして、その集団の中で自分自身の態度、行動、話し方、服装などを知り、決定づける。これを「集団社会仮説」とし、家庭からの影響よりもずっと強力であることを主張する。なお、子どもがこの集団認識を経験するのは、早ければ2~3歳からとなる。

 

という感じだろうか。

 

 

育児に関して、世の中には子供の集団以外の影響力を期待した本や製品で溢れている。たとえば、

「遊びながら論理的思考力を磨く教育プログラム」

「空間認知能力が身につくトレーニングおもちゃ」

「◯歳までにこのプログラムを実施することで、IQが20アップ」

「沢山語りかけることで言語能力が格段に上がる」

「育脳、はじめませんか?」

「地頭が良くなる!実践ナンチャラメソッド」

「子の一生を決める6歳までの育て方」

「子供の才能を120%発揮させるハーバード流育児」

 

とかとか。Amazonで「育児」と検索すれば、文字通り玉石混交の書籍がブワーッと出てくる。なお、上記のようなタイトルの本は、沢山の高評価を得られ、図書館で数カ月~数年先になりそうな予約順を待たなければならない場合が多い。それほどに、親が子供に影響力を与えることへの期待というか、親であるがゆえの責任を感じているということの表れなのだろう。

 

ただ、筆者は上記のような「子供同士の環境以外の要素」を、ほとんど影響を及ぼさないものとして、快刀乱麻を断つがごとく、ことごとくぶった切っていく。筆者は本書で下記のように述べている。

私達たちの思いどおりに子供を育て上げることができるという考えは幻想に過ぎない。あきらめるべきだ。子どもとは親が夢を描くための真っ白なキャンバスではない。 

 育児アドバイザーの言葉に気をもむことはない。子どもには愛情が必要だからと子どもを愛するのではなくて、いとおしいから愛するのだ。彼らとともに過ごせることを楽しもう。自分が教えられることを教えてあげればいいのだ。気を楽にもって。彼らがどう育つかは、あなたの育て方を反映したものではない。彼らを完璧な人間に育て上げることもできなければ、堕落させることもできない。それはあなたが決めることではない。

下巻P303

 

なお、筆者は「子どもはほったらかしてもよい」とか、虐待やネグレクトを軽視しているわけでもない。親がやろうと思えば力で子ども支配することはできるわけで、そういった常軌を逸した行動をする親は何であれ否定されるべきであるとする。筆者が言いたいのは、通常の親と子の関係性の範囲の中で、親が子どもに能動的に影響力を行使しようとしても、子どもはもっと強い社会集団の中で影響を受けているため、その効果は薄いと言っているわけである。

 

では、親は子どものために何もできないのか?そんなことはない。

 親が子どものためにできることは、子どもに直接作用させることではなく、望ましい集団につなげること。そして、もしも仲間集団から好ましくないことや奇異に感じられるような特徴があるのであれば、なくしてあげること(服装、歯、皮膚、名前等)であるとしている。

親であれば、ほぼ誰もが行使できる一つの力。それは子どもの人生の方向を決定する一つの方法でもある。少なくとも子どもがまだ幼い頃には、誰が子どもの仲間となるかを決めることができる。

下巻P278

 

感想

 内容はかなり納得感がある。実際に育児をしていても、子どもは当初思っていたよりもあっという間に「人間らしく」なるんだなあと感じる。それは表情の豊かさや、言葉遣い、記憶力等、あげればいろいろな点で。それは親が与えたというよりも、子供が自らの力で習得しているようにも見える。もちろん、親がいないと衣食住の面では困るだろけど、それが満たされれば、別に「私が教えてあげないと」という強迫観念は持たなくても良いのかもしれない。

 

本著内では、子育てに関する豊富な事例や研究が紹介されているので、ドラマや漫画、小説などで子育て描写を観るときにいろいろ思い出しそうだ。ああ、この描写はリアルだな、とか、いやこういう風にはならんでしょ、とかね。ただのいやな視聴者だけど。

 

ただ、Amazonの評価でも散見されるけど、副題「重要なのは親じゃない」はおかしい。次に述べる通り、「いや親も間接的に重要な要素では?」と思う点が多いからだ。そこらへんは信頼できる早川書房さんに対応をお願いしたいところだけど…。

 

個人的な疑問・反論

筆者の主張はうなずける点が多い。ただ、全く鵜呑みにできるわけでもない。

以下に個人的に感じた疑問・反論を書いてみる。

 

 

・遺伝の影響力はそんなに強力?それとももっと強力…?

 これは反対意見というか、個人的に気になったところだけど、親から子への遺伝って、実際のところどの程度のものなんだろう?この本では前提として子供の人格・能力は「遺伝50%、環境50%」としている。筆者は心理学研究を否定するために遺伝子の影響を強めに主張したいようにも見えるのだが。皆さんはどう感じるだろうか。

 

 もしかしたら実際は「遺伝80%、環境20%」かも知れないし、「遺伝20%、環境80%」なのかもしれない。個体差によって程度に差がある気もするし、遺伝と環境の間に相互作用があり、いくらでも変動するかもしれない。ここらへんの遺伝子に関する議論が本書内では古いのが気になった。出版されたのが1998年なのでしょうがないのだろうが。

 遺伝子の影響力について最新研究に照らし合わせて見る必要があるだろう。そこらへんの書籍は別途時間があるときに読んでみたい。昔、シッダールタ・ムカジーの『遺伝子』を読んだけど、内容だいぶ忘れたので、もう一回読み直してみようかな。

 

・本当に家庭環境の影響は、言うほどに小さいのか? 

 子の人格形成や社会性は社会集団による影響が大きい、というのはわかるのだが、だからといって家庭環境の影響が小さいとするのは、やや無理があるように感じた。少なくとも子供にとって多くの時間属しているのが家庭環境なわけで、その影響はもう少し慎重に検証する必要があるだろう。

 筆者は、既存の心理学が家庭環境の影響力に関する研究ばかりしていることをことごとく否定しているが、既存研究の否定が家庭環境の影響の低さを証明するものではない。あくまでその研究の真偽が怪しいことを指摘しているだけで、もしかしたら、この世には「こうしたら家庭環境でも子供に強力な影響を与えうる」という手法があるのかもしれない。ただ、子供に関する研究は人体実験に近いところもあるので、なかなかそれを証明するのは難しいだろうけど(証明できないからこそ、怪しげな商品や識者が後を絶たないのだろう)。

 あと、将来の家事・育児・家計への向き合い方は家庭環境に大きく影響を受けているのではないだろうか?本書が書かれた時代のことはわからないけど、少なくとも現代においては社会のコミュニティだけではなく「家庭を豊かにする能力」を問われる場合も多い。そして、例えば「家庭科」教育なんかは、学校よりも家庭環境に大きく依存しているように思われる(この点は筆者も指摘している)。

 この点で見れば、筆者の主張とは違って、時代の変化とともに家庭環境の重要度は高まっているのではないだろうか。

 

・子どもを取り巻く社会ネットワークの変化を考慮しきれていないのでは? 

 これはしょうがないことだが、人間関係がインターネットによっていくらでも拡張できる中、筆者が想定しているのは保育園や学校を中心としたローカルエリアに限定しているように感じる。人的ネットワークの範囲が1998年から更に拡大していることを考慮したとき、筆者の集団社会仮説がどこまで変わらずに通用するのだろうか。

 

 

・結局これって「親ガチャ」?

 これが一番気になったことなんだけど…。

 

筆者自身は親ガチャ的な考え方を下記のように否定している。

 

子ども時代を振り返ったとき、頭に思い浮かぶのは親だ。責任を押しつけたいのなら、心の中の人間関係を司る領域にすべきだ。それはあなたの考えや思い出を不当なほど多く奪ってしまっているのだ。

 あなたに悪いところがあるとしても、決してそれを親のせいにしてはならない。

下巻P325

 

ただ、私は本書を読み終えて、筆者の考え方は残酷なほどに「親ガチャ」でもあるのかなあ、と思った。筆者の主張の要は

 

・親の遺伝で半分決まる

・残りは環境。その大部分は子どもの集団環境。

 

である。そして、親は環境を用意することくらいしかできない、と言っている。先述の通り遺伝と環境の影響度は再度検証が必要だとして、とりあえずこの前提で考えてみるが、これは言い換えれば「子供が生まれる前に、親は子どもの人生の半分に影響力を行使し、更に産んだ後も、子どもの環境をコントロールする力まで有している」と言えるのではないだろうか?もちろん、親が用意した環境で子供がどのように振る舞うかについては、親がコントロールできるものではない。そこは子供自身の能力が問われるのだろう。しかし、少なくとも集団を作る環境を提供できる親の立場はかなり強いように思うのだが。ジャングルに放置するのも、レベルが近い人間同士に囲まれるのかも、異国に住ませるのかも、その入り口部分は親次第なのだ。そして、この環境を用意できる(もしくは変更できる)か否かは、親の職種や収入、子育てに対する考え方にかなり影響を受ける気がする。遺伝子だけですでに半分程度の影響力を持つのに加えて、である。

 そうすると、「親ガチャ」という表現はあながち間違っていないように思えてくるのだが…どうなんだろう?

 

最後に

自身が子育てをしていることもあり、とても面白く読んだ。「アレ?」と思ったときには本のページを戻して何度も読み返した。内容については概ね納得が行くものだったが、いい意味で反論したい点もあったりと、とても頭を使った読書時間だった。

 

最近、中学受験関連のニュースを読んで、この本のことを思い出す。筆者が主張する子ども同士の環境の重要性は、現代の親たちは十分に理解していると思う。だからこそ、生活が苦しくなってでも私立に入れたい願望をもっているのではないだろうか。もしかしたら筆者はこの状態を喜ばしく感じるかもしれない。

 ただ、親が過剰に環境(親にとって望ましい)にこだわりすぎることで、本来子どもに適した環境から遠ざかってしまうのは悲惨なことだし、社会環境だけに期待して家庭環境がおざなりになってしまうとしたら、それも本末転倒な気がするのだが…どうなんだろう?

 

ただ、いずれにしても、子育てというものは、筆者が言うように、親が適度に楽しむスタンスがちょうどいいのかもしれない。お金や時間の上限超えてまでやる必要はない。親自身の人生だって楽しむことを否定されるべきではない。

 

 親が子どもに人格や能力を与えることは期待するほどできないかもしれない。しかし、一緒に時間を過ごすことで得られる「子供や夫婦で共有できる思い出」は何物にも替えられないはずだろう。本来、子育ての時間というのは、そういうものなのかもしれない。気づかぬうちに肩に力が入って「自分の子供はこういう子供にしたい」という気持ちにとらわれてしまうんだけどね。

 

最後に、この本を読んで、安易に他人様(もしくは妻)に「子育てなんて、頑張ったって意味ないんだよ」とか「習い事?お金や時間の無駄だよ。どうせ意味ないんだし」とか「うちの子は、あんなくだらない奴らと遊ばせるより、もっとレベルの高い人間と一緒に遊ばせよう」などと言ったら、もう口を聞いてもらえなくなる可能性があるので注意しないとね。筆者が言いたいのはそういうことでもないし。

 

 

育児に関する数少ない真面目な本、面白かったです。えらい長文になってしまった。