月曜日。晴れ。
朝食を用意し、一太郎に「ご飯食べるよ~」と呼びかける。一太郎は
「ママがいい~」
と言って、私ではなく、二太郎を抱っこしているママの方に行ってしまう。昨日は「パパがいい」と言って、私と一緒じゃないと食べたくないと言っていたのに。全く、心変わりのなんと早いことか。
いままでだったら、「いいよ、じゃあ、ママと食べな」と言って、私が妻と交代して二太郎を抱っこし、妻が一太郎とご飯を食べる流れとなる。だが、今日は
「いいよ別に、ママと食べても。でも、昨日はパパが良いって言ってたじゃないの」
と文句を言うように伝える。すると、
「キノウはパパとたべたね。アシタはパパとたべるね」
と言う一太郎。私は、一太郎が「昨日」「明日」を使い分けていることに少し驚いた。そうか、もう時制を理解しているのか、と、息子の言葉の発達に感心。
ーーしかし、よくよく振り返ってみると、一太郎は「キノウ」を下記のように使っていることを思い出す。
(絵本で動物が出てくると)キノウ、どうぶつえんでサルみたね。
→実際に動物園に行ったのは、2週間くらい前。
(クリスマスにもらった新幹線プラレールで遊びながら)これ、サンタさんがキノウ、プレゼントでくれたんだよね
→クリスマスはすでに数ヶ月前。
多分、一太郎は「キノウ」という単語を、厳密な意味での「昨日」ではなく、「ちょっと前」というニュアンスで使っているのかもしれない。
また、「アシタ」についても、微妙に使い方がおかしいことに気づく。
例えば、公園で楽しく遊んでいるときに、「もう遅いから帰ろう」と伝えると、
「アシタ、またこようね」
という。これについては正しい使い方のように思える。ただ、「サンタさんからまたプレゼントもらいたい」と言う一太郎に対し、「サンタさんはお休みだから、まだ来てくれないんだよ。一太郎がいい子にしていたら、またサンタさん来てくれるよ」と伝えると、
「うん!サンタさん、アシタまたきてくれるかな」
と言う。これは、一太郎がせっかちなようにも感じるし、一方では、一太郎は「アシタ」と言う単語を「ちょっと先」というニュアンスで使っているようにも感じる。これについては一太郎の言葉遣いをもう少し観察してみたい。
とある本を読んだせいか、一太郎の言葉遣いにより注意を向けるようになった。それがこれ。『ちいさい言語学者の冒険』。
「これ食べたら死む?」どうして多くの子どもが同じような,大人だったらしない「間違い」をするのだろう? ことばを身につける最中の子どもが見せる数々の珍プレーは,私たちのアタマの中にあることばの秘密を知る絶好の手がかり.言語獲得の冒険に立ち向かう子どもは,ちいさい言語学者なのだ.かつてのあなたや私もそうだったように.
本紹介より
二太郎を寝かしつけながら読んだ。まず、タイトルが秀逸。それだけで興味がそそられる。
【メモ】
・「か」に濁点は「が」、「さ」に濁点は「ざ」、「た」に濁点は「だ」、「は」に濁点は「ば」ではなく「が」が正しい?少なくとも音の出し方では「ば」にはならない。子供は実践を通して規則性を身につけるため、「は」の濁音が「ば」になることは納得できない。
・こどもが「とうもろこし」を「とうもころし」というのは、発音のしやすさを実践を通じて身につけた表現。
・子供が『死ぬ』を「死む」と言ってしまうのは、日本語における「な行」の五段活用が『死ぬ』しか無いため。子供は手元にある実例から、「ま行」の五段活用を参考にし、「死む」と表現してしまう。
・大人は、自分が正しい表現を使って見せたり、間違いを指摘することで、子どもの表現を修正しようとする。しかし、子供は自分でルールを見つけているため、新しいルールが身につけられそうであれば大人の言う事を聞くが、そうでない場合は効果が薄い。(大人が無理やり修正させなくても、自然と修正されていく)
・子供が参考にできる実例が少ない場合、対象から限られた情報だけをとらえ、それをあらゆるものに当てはめて一般化しようとする。たとえば、初めて「犬」をみた時に、「四つ足」「人間以外」という情報だけを抽出し、「猫」も犬と判断してしまうように。これを過剰拡張と呼ぶ。
・逆に、初めてみた犬の鳴き声が「クンクン」だったとき、「すべての犬の鳴き声はクンクン」と拡大解釈する場合もある。もちろんワンワンもいれば、バウバウもいるし、ガルルルもいるのだが。これを、過剰縮小と呼ぶ。なお、過剰縮小は、日常を過ごすときに過剰拡張よりも実例の報告は少ない。おそらく、日常生活を過ごす場合においては、過剰縮小のほうが見つけにくいからかもしれない。
・(2歳の一太郎もよく言うけど)幼い子がデザートを食べた後、食器を差し出し「あつまれをして」というのは、使役表現を使えないながらも相手に意思表示するために編み出した表現の1つ。
といった感じ。
本の中では、子供たちが言語ルールにおいて、大人では気づかないような意表を突く疑問を感じている姿や、少しずつ間違いを修正しながら正しい表現を身に着けていく過程を面白く描いている。筆者自身のお子さんとのやり取りも微笑ましく感じる一方、子どもの些細な言い間違いをここまで深く考えるのは、さすが言語学者。
筆者が一貫して伝えているのは、子供は手元にある経験とあらたな実践を通じて、言語の複雑なルールを解釈・微調整しながら、たくましく母語を身につけている、ということだ。大人よりもよっぽどクリエイティブで刺激的な日々だろうから、大人は邪魔せずにサポートしてあげるスタンスでいることが必要なのかもね。
余談だけど、一太郎は最近、「ちんち◯」や「ち◯び」という単語をニヤニヤしながら使うようになっている。
また、「カレーをたべて、ジュースをのんで、トイレいって、おふろはいって、はみがきして、えほんよんで、それからねよう」といったように、長い文章を表現することに一生懸命になっている。
そして、冒頭に書いたとおり、「キノウ」「アシタ」のように実践を通して新しい言葉の意味を捉えようとしている。
辞書を使って「正確な意味」を調べてオシマイ、な(そして一向に覚えられない)私の学習法とは違い、なんだが非常にフィジカルな学習スタイルである。
こういう本を読むと、息子の姿が本当に頼もしく思えるし、自分も見習わなきゃなと思う。一方で、可愛らしい間違いをしているときには、無理に矯正しようとせずに、こちらも好奇心を持って接していきたい。
…まあ、こちら側の余裕がないと、なかなか難しいんだけどね苦笑